【だらだらエッセイ】54歳。なれるのかドローンパイロット

【だらだらエッセイ】54歳。なれるのかドローンパイロット

ドローンパイロットを目指す日々を徒然なるままに…(疲れたら愛車ジュリエッタのことも時たまに)

27. 続けることの大変さと大切さ。そして18年前へ

あっという間に、また5ヶ月時間がたってしまいました。

 

特に期待されているとか、皆が待ち望んでいるとかというブログでないのですが、言い訳すると仕事が忙しかったにつきます。

 

会社は経営者だと言いますが、本当にそう思います。

6月に新たな経営者になり、随分と変わりました。

社員は変わっていないので経営者でこんなに変わるのかと驚いています。

スポーツでも監督が変わると急に勝ち出したりするので、組織体はいかに指導者が大切なのか身をもって感じている次第です。

 

とはいうものの、仕事がより一層大変になったこともまた事実。

変わるためにはプラスαの負荷がかかりますよね、当然。

ブログはすっかり手付かずでした。やり方すら忘れかけているくらいです。

肝心のドローンの練習もままならぬ日々です。

 

ブログでも何でも、コツコツと続けていることの大変さ、そして大切さをあらためて実感した次第です。

大変なのは皆同じ。

その中でも続けるというのは相当な労力と精神力がいることですね。

私はブログに関して全くできませんでした!

 

 

 

じゃあ何をコツコツと続けたのか

 

じゃあ、いったい何ができてたんだと自分に問うたところ、あれもダメこれもダメ。

結局何もないじゃないかと諦めかけた時、ありました一つだけ。

忙しい中でも私が続けたことは、(ほぼ)毎日の腹筋と腕立てでした。

これはかれこれ2年半は続けています。

 

腹筋は20回を4セット、腕立ては20回を2セットなのです。

少ないといったら少ないのですが、毎日続けるのはそれなりに努力がいることなのです。

 

やり続けるだけの大きな意志があったはずです。

その意志とは。

それはたぶん、オジサン三重苦への恐怖心ではないでしょうか。

 

すでに一つ目の苦難「ハゲ」はがっつりといただいています。

2つ目の苦難である「腹出」を避けるためなのです。

3つ目は「オヤジ臭」ですが、これもつとめて清潔にしているのでまだ大丈夫(だと妻は言っている)です。

 

「腹出」は気を抜くとすぐに見事なまでに達成してしまいます。

私もなりかけました(と言うかなっていた)。

 

2年半前に胃腸炎の副産物として腹が引っ込んだのを契機に、その状態を維持するために始めたのです。

あの時は3日間断食したのでした。

本当は医者から2日くらい食べるの控えてと言われただけなのですが、インドの正式な断食は3日間だという非常に不確かな情報を聞き、せっかく2日頑張ったのだからもう少しだけ頑張ってみようと思い立ったのでした。

 

最後はさすがに立ちくらみというか、座っていてもフラフラしてしまいました。

ただ、そのかいあって、5Kg体重が落ち、お腹も減っこんだのでした。

 

その他、オヤジが背負いがちな苦難としては、足クサや口クサ、耳毛、猫背、脚細など色々あるかもしれませんが、上げたらキリがなくそれこそ三十苦になってしまうので割愛します。

 

ほんの少しのトレーニングですが、毎日やるとそれなりに効果があるものです。

腹筋はトレーニングしてるな風になって来ています。(そのはずです)

6パックでは全くなく、いまだ1パックなのですが…。

 

胸や肩の筋肉もシャツ1枚になると、トレーニングしているしていないといのはシルエットでわかるものです。

きっと変わってきているに違いないです(未確認)。

 

学生の頃、随分とエッセイを読んだ「椎名 誠」氏は、今でも毎日ヒンズースクワット300回、腹筋200回、腕立て100回が日課だそうです。

すごいですよね。

 

昔、椎名誠好きの大学友人アライくんと「山形林間学校 〜焚き火塾〜」に参加したことがありましたが、椎名誠氏の身体は確かにビシッと引き締まっていました。

 

 

いつしか昔の思い出話へ 〜夏合宿〜

 

そう言えば、アライくんに誘われ、卒業後、毎年夏に、合宿と称して日本海の島にキャンプに行っていました。

椎名誠著「わしらは怪しい探検隊」のエッセイに感化されているアライ隊長がほぼ強制的に選んだ合宿地は、新潟県の小さな島「粟島」でした。

エッセイに出てくる島です。

 

時は1995年8月。私がまだ31歳際の時でした。

初回メンバーはアライくんのほか、ワカバヤシくん、私の3人でした。

 

アライくんは、物静でいつもドゥフドゥフ笑っているのですが、非常に意志が強く、とてつもない困難な峠をあえて選び、皆を地獄の苦しみに微笑みながら導いたりします。

 

カバヤシくんは、いつも冷静沈着なのですが性格が暗いため、クラバヤシと呼ばれたりするのですが、ロマンチストな一面もあり、職人気質で陰気な詩人と言ったところでしょうか。

 

後半の道中記に出てくるトマベチさんは、我々の1年先輩で、神奈川県のエリート高校から現役で入学してきたので歳は同じ(私は何故か歳上)。その才能はアイドルの誕生日を記憶するなど、非生産分野に消費されている。

 

個人情報なのでこれ以上はやめておきます。

名前もプライバシー保護の観点からカタカナにしておきました。

 

アライくんは椎名誠氏のエッセイの内容には精通していましたが、粟島の流通業界のリサーチは甘かったため、初回は食料事情が厳しい合宿だったと記憶しています。

粟島にはスーパーマーケットというものがなく、現地での食材調達が非常に困難だったのです。

 

我々、大学時代はサイクリングクラブであり、テント、鍋、寝袋を装備しながら全国を旅した経験があったため、キャンプ、自炊には自信があったことが災いしたのかもしれません。

いわゆる過信というやつです。

 

それはあくまで文明の恩恵を受けた上でのキャンプ、自炊であり、本当の意味での「野生」では全くなかったのです。

 

食材はスーパーマーケットで購入し、調理はホエーブスというスエーデン製のガソリンコンロを使い、テントもドーム型の簡単設置テントであり、テン場は水道やトイレが完備された公園やキャンプ場が主だったのです。

今から思えば、文明の利器の範囲を一歩たりとも出ていない、ひ弱な屋外宿泊でしかなかったのです。

 

しかし、その時の自分たちは、チャラチャラとテニスだスキーだと興じている奴ら(男のみ)をひ弱な人間どもと軽蔑し、山岳部に対しては、なんか少し似てるけどあれほど汚らしくて暗くないぞ、一緒にしないで!と主張し、自分たちは野性味溢れるけどスマート、ワイルドにして爽やかぐらいに思っていたのでした。

(なのに女子ウケは非常に悪かった)

粟島合宿はその愚かさに気づかされたと言えます。

 

粟島の西側海岸には、エッセイの通り、クジラに似た岩もあり、湧き水もありました。

海も夕日もとてもキレイでした。

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しかしながら、椎名誠の怪しい探検隊が海から食材を調達して調理していたのに比べ、

我々は海→漁師→市場→卸売業者→小売店という流通経路を経ないと、海から新鮮な海の幸を調達する能力がこれっぽっちもないことに現地で気がついたのです。

 

しかも、誰かが加工してくれてないと食べ方すらわからないことにも気がつきました。

 

ウニがいたのですが、これは本当に食べられるのか、食べられるとしてもどうやったら馴染みのある寿司ネタのウニになるのか、皆目見当がつきませんでした。

 

きっと魚が釣れたとしても、この魚は何なのだろうか、はたして食べられるのだろうかと議論し、そして諦め、結果として海に戻していたに違いありません。

 

その時は結局、粟島に渡る前に新潟の海岸で1泊キャンプした際に購入した、食材の残りのソーセージや野菜で鍋を作ったような記憶があります。

 

まあでも、合宿の発起人であるアライくんの真の目的は、粟島のクジラ岩の見える海岸で、焚き火をしながらビールを飲むということだったので、その目的は達成できた初回夏合宿でした。

 

翌年は、もう少し文明の力にあやかろうということで、島としてはかなり大きい佐渡に変更になりました。

場所の選考はアライ隊長に一任されてましたので、我々はただ従うだけです。

 

とにかく「島」でなければならないらしいのです。

その理由は、聖書でもある「わしらは怪しい探検隊」に書いてあるのですが、

まあ、そこはいいとしても、何も新潟県の「島」じゃなくてもいいだろうとは思ってました。

とにかく島に行くまでが一苦労なのです。

「まあ、でも大きなスーパーがありさえすればいいや。

佐渡は合宿地まで車で行けるし。」

 

しかし、この合宿は直前で隊長のアライくんが仕事で不参加となり、スーパーはあれど、別な意味で悲惨な結果に終わった合宿でした。

 

隊長不在の我々(ワカバヤシ、シマ、私)3人は、佐渡に大きなスーパーも見つけ、初日こそ快適に旅を楽しんだものの、

二日目は夕飯を作っているときに突然の豪雨に見舞われ、夕飯を守りつつテントに逃げ込んだものの悲惨な晩飯となり、

その後も雨や砂がテントに入り込み、これはとても寝られんとワカバヤシくんの愛車レガシーに移り、

そこで蚊と闘いながら寝苦しい一夜を過ごすことになったのです。

 

そうなると楽しかった状況は一転、負け戦の軍隊の惨めな敗走のように、予定を早々に切り上げ、言葉少なげに朝一番のフェリーで帰路についたのでした。

 

初回、第二回ともに輝かしい実績を残せなかった夏合宿ですが、その後もパッとした成果は得られず課題を次回、また次回に残す結果となっていたようです。

 

私は第二回以降しばらく夏合宿には参加できませんでした。

私はというと、これまた悲惨な中小企業診断士の資格取得のド壺にはまり、

1998年第一次中小企業受験戦争、

翌99年の第二次、第三次中小企業受験戦争を経て、

2000年4月に終戦をむかえるまで参加を見送っていたのでした。

 

戦争の傷も癒えた2001年8月に、やっと夏合宿に戻ることが出来ました。

私はすでに37歳となっていました。

 

18年前にタイムスリップ 〜第5回 夏合宿 佐渡編〜

 

その時の道中記が昔のアルバムから出てきたので、当時を振り返ってみたいと思います。

 

本当に、ドローンはどこに行ってしまったのでしょうか。

このブログのテーマと全く離れていってしまってますが、ドローンの新たな話題がないので仕方ないです。

そして、今回は過去の文章のコピペですが、異常に長い事を前もってお断りしておきます。

 

こういった何も有益な情報のない私的なブログは最もよくないと、「アクセス数を伸ばすコツ」に書いてありました。

あえてそこに挑もうと言う展望なき攻めの姿勢で(今回も)いきます!

 

 

夏合宿 in 佐渡 2001年(2001.8/18 土~20 月)

 

プロローグ


アライの企画した夏の島合宿も今年で、エー何回目だっけ。第 1 回目は粟島だろ、これはアライ、ワカバヤシ、私の 3 人。

第 2 回目は佐渡だろ、ワカバヤシ、シマ、私の 3 人。

第 3 回目も佐渡だろ、アライ、ワカバヤシの2 人。

第 4 回目はアライ、トマベチ先輩2 人、場所は?。

その翌年は(去年だ)確か行かなかったらしい。

そうすると今年(平成 13 年)は、第 5 回目ということだな。

 

アライ隊長の企画した夏合宿も今年で 5 回目を迎えた。

今回の参加者は、アライ、私。そのあとがなかなか決まらなかった。

カバヤシは

「私は欠席と言うことで・・・」と冷たい返事。

 

シマさんは

「シマはただいま充電中です。今年の夏は一人で旅に出ます。帰らないかもしれませんが、その時は捜さないで下さい。」とのこと。

 

ハラシマは

「たぶん行けるよ」と言っていたのに、翌日「やはり行けなくなりました。」とのメール。

 

そして、ついにトマベチ先輩の登場となった。

しかし、これまた来るのか来ないのかはっきりしない。

 

とにかく、アライと 2 人でも行くことにした。

場所は再び佐渡

ここならフェリーを使って車で島まで行ける。

 

車を島まで持っていけない粟島は、荷物運びが大変なのだ。

しかも2人となると分担が大変なので辛いなあと思っていたので、アライ隊長の決断をひそかに喜んだ。

アライのことだから、わざわざ大変な方を選ぶかもしれないと、ちょっと不安であったのだ。

 

事前準備。そして出発へ


出発は8月17 日の夜となった。

新潟港 朝6:00 出港のフェリーに間に合わせるためだ。

17日は朝からせっせと準備を進めた。

あと足りないものはビールを冷やす大き目の発泡スチロールと、必要かどうか疑問ではあるが、是非持って行きたいと思っていたビーチチェアだ。

 

発泡スチロールは会社の倉庫にたくさんあったので、こっそりお借りした。

さらに、会社近くの「島忠」にビーチチェアを買いに行った。

数日前に 1 脚500 円で売っていたのを見つけておいたのだ。

しかし、ビーチチェアは、残念ながら売り切れていた。

 

「そりゃそうだよなあ。安かったもんなぁ。」

とブツブツつぶやきながらも、あきらめきれず何度も店内を捜したが、ないものはない。

 

木炭と着火剤を買ったが、諦めきれず帰りに自宅付近の「ドンキホーテ」に寄った。

 

「合宿にビーチチェアがそんなに必要なのか」

と自分に問うてみたが、気になりだすとどうも気になるし、欲しいものは欲しいのだ。

ビーチチェアはあるにはあったが、1280円と島忠の倍以上だ。

「高いなあ、島忠なら 2 脚買えたなあ。」

と思ったが、実際はこれでも随分安いのではないかと思い直し、ついに購入を決意した。

 

その他、長年の懸案事項(海から海の幸を獲得する)達成に必要な水中メガネとシュノーケル&足ひれセット(3000 円)を手にとってじっと見たが、島忠の倍以上の値段のビーチチェアのさらに倍以上とあって断念した。

 

「あれだけ海の幸は隊長の仕事だと言っといたからな。きっとアライが持ってくるだろうな。」

とも思い、ケチで断念したわけじゃないと自分に言い聞かせた。

 

しかし、やはり隊長を信じたのが馬鹿だった。

島に行ってから思ったのだが、ビーチチェアよりも水中メガネのほうが断然重要だったし、結論としては両方買っておけば良かったのであった。

 


1 時間ほど仮眠をして、夜 21:00 に自宅を出発。

23:00 前にはアライ隊長宅に到着。

 

コーヒーをご馳走になり2人は意気揚々と出発した。

隊長宅近所のドンキホーテでビールを大量に買っていくことにした。

しかしここでビーチチェア 980 円を発見してしまったのだ。

 

「くそっ。こっちで買えばよかった!」

大した金額の差ではないが、ものすごく損した気がするのは不思議だ。

ドンキホーテばかりに行っているとこの辺の価格帯に対してものすごく敏感になってしまう。

 

ビール500ml 1 ケースとジン 1本を購入。

うすうす予想はしていたが、やっぱり新井は水中メガネを持ってきてない。

購入を強く勧め、本人も仕方なく購入を決意したのだが、店内どこを探しても見つからない。

探したいものを探す時は、ドンキホーテのジャングル陳列は最悪だ。

フッと見ると、隊長がビーチチェアをじっと見て、手でさわったりしている。

 

「こいつ!隊長のくせに合宿に必要なものの優先順位がわかってないようだな。」

 

ビーチチェアはこれ以上車に積めないと、隊長の購入希望を冷たく断ったのだった。

 

そんなことをしている間に 0:30 になってしまった。先を急がねば。

川越インターから関越に入り一路新潟へ。


アライ隊長情報によるとトマベチさんはどうやら参加するらしく、佐渡で合流する予定でとのこと。

 

アライとは結婚式以来 1 年半ぶりに会ったにもかかわらず、記憶にも残らない、内容の薄い、取り留めのない話をしている間に夜は白々と明けてきて、早朝5:00 ごろ新潟港に到着した。

 

6:00 出港の佐渡汽船のフェリーに乗り込み一路佐渡へ。

2時間 20 分かかるのでひとまず仮眠。

 

 

佐渡上陸。時間つぶしが大変じゃった


8:20 両津港に到着。

佐渡は夏らしい快晴で、空気が澄んでいるせいか日差しも強烈に感じた。

 

トマベチさんとの合流は 12:00 。

まだまだ時間があるので、ひとまず、「トキ」を見に行くことにした。


佐渡トキ保護センターはきれいに整備された施設だったが、

不必要に車の誘導員が多いような気も。

 

「国から補助金ががっぽりでてるな」とか

「車の誘導員に無駄金を使っているんじゃないか」など

佐渡の明るく澄んだ夏空とはかけ離れた、グレーにくすんでいる我々の発想であった。

 

しかし、あまりにも遠くに大切に保護され、双眼鏡を通しても豆粒のようにしか見ることのできないトキを見た帰りは、

「あれは本物じゃないなロボットだ。本当はもう絶滅しているんだ。」とか、

「これだけじゃこの施設には人が来ないね。もっとトキ料理を出すとか考えないとダメだ。」などと、

我々の発想はグレーからブラックへと発展していった。

 

トキを見終わってもまだ時間がある。

その先の妙宣寺と国分寺にも足をのばすことした。

 

妙宣寺では、藁葺き屋根の張替えがどんなに大変かを、とくとくと説明してくれる案内のおばあさんがいた。

 

しばらく聞いていたのだが、

「このままだと、この終わりの見えない話で帰るきっかけがなくなる。」

そう思うともう話の内容よりも、どのタイミングで立ち去るかしか頭になくなった。

 

スーパーでつい試食をした時に、うっかり販売のおばさんの説明を聞いてしまった時の感覚と似ている。

 

先にいたカップルの男の方が相槌をうって話を聞いている。
後からきたおばさんの一団が気づくといない。

 

「しまった。このカップルに先を越されるとやばいぞ。」

カップルの男がさらに相槌をついた瞬間、隊長に話し掛ける振りをしてなんとかその場を脱出した。

 

あのカップルは当分あそこに足止めくらうだろう。可哀そうだが仕方ない。

 

寺を見てもまだまだ時間がある。

さらに先のアルコール共和国というところまで足を伸ばすことにした。

 

アルコール共和国と言っても酒造が3軒点在しているだけなのだ。

尾畑酒造という所を見学することにした。

 

試食の漬物があったので試食をしてみた。

 

この時、アライ隊長に試食のコツを伝授したのだった。

そのコツとは、どんなに美味しいと思っても、必ず食べた後に首を傾げて、

「ちょっと自分には合わないなあ。」

という顔をするというものである。

 

これは私の妹から教わった技なのだが、

美味しいと言ってしまうと、後は 何となく買わない訳にはいかないような雰囲気に進んでしまうが、

美味しくないなら買う理由がないので立ち去りやすいという、試食をする者すべてに共通する逃げの心構えなのだ。

 

そのコツを教えながら、誰も見ていないのに2 人で首をかしげながら食べていると、店奥からお姉さんが飛んで来たのだ。

 

(そんなもの食べてないで)まず奥にあるビデオを見ろと言う。

「しまった。うかつに試食するんじゃなかった。何かきっと罠があるぞ。」

 

恐る恐る奥に行くと、お姉さんはただビデオのスイッチを押して

「ゆっくりご覧下さいね」

と言い残しいなくなってしまった。

 

「アライ、油断するな。あのお姉さんはこの酒造の一番の営業マンで、あとできっとなにか買わされるぞ。」

 

そのあと、特に何も買わされず、お酒の試飲までさせてもらい、

さらに先ほどのお姉さんに写真まで撮ってもらって店を後にした。

 

外に出て佐渡の澄み切った空を見上げた時、自分の発想が心底腐っているように思えた瞬間だった。

 

 

トマベチさんとやっと合流。ここからは3人に


12:00 。やっとトマベチさんと合流する時間になった。

両津港に戻る。

 

待合室でリュックを背負ったトマベチさんを発見。

こっちに気づいていないのでしばらく観察することにした。

 

まず、ハガキを買っていた(後で見せてもらったが、トキが描かれているかなり渋いデザインだった)。

そのあと立ち食いソバ屋を眺めたり(食べるわけではなく)、トイレに行ったりで、いっこうに我々を捜す気配はない。

本当に合流する気があるのだろうか。

そのうち土産物売場に行ってしまったので追いかけて捕まえた。

 

トマベチさんも前日の21:00 に出発していたはずなのに、何故こんなに遅いのかと聞いてみたら、

どうやら、昨日は喜多方でラーメン屋巡りをして、昨夜は公園のベンチで野宿していたらしい。

 

「公園で寝ていたら、蚊にさされて大変じゃったぁ。」

と言っていたが、こっちも時間をつぶすの大変じゃったのだ。

 

この後、合宿中ずっと独特なトマベチ節がずっと続くことになるのだ。

トマベチ節とは簡単に言うと、子供のようにはしゃぎ、

そのはしゃいでいる様子や状況を、誰かに話しかけるような口調で第三者的に解説し続けるというものである。

 

その解説は、自分の頭の中だけで関連性のある言葉(他の人には突拍子もない言葉)にちょくちょく切り替わるため、我々にはいわゆる

「頭のおかしなおじさん」

にしか映らない。

 

大学時代から時々こういった状態になる傾向はあったが、会社のストレスなのか、その状態だけになってしまったようだ。


とりあえず、食事をすることにした。

ガイドブックにあった「手打ちそば 祝(ほうり)」に行く。

 

「祝」を「いわい」でなく「ほうり」と読ませることに店主のこだわりを感じていたが、この辺では祝(ほうり)という名字があるらしい。

食事後に、道端に貼ってあった選挙ポスターでわかった。

 

こだわりとは真逆に、店主の名前をそのまま屋号にしている安易な店であった。

メニューの写真とボリューム感の随分異なる「冷やし祝そば(900 円)」を食べた。

 

支払いは共装だ。

共装とは共同装備の略で、サイクリングクラブの時のやり方なのだが、

皆から一定のお金をあらかじめ徴収し、会計係に任命された人がお財布を管理して食材費などをそこから支払うというだけのことだ。

支払いを個人払いにするか共装払いにするかの権限は隊長に一任される。

 

お財布からお金がなくなったら再び徴収されるので、どちら払いでも大して変わらないのだが、共装払いだと何か得した気がするから不思議だ。

 

そば屋のそばのAコープでビールを冷やすためだけの目的で氷を購入した。

トマベチさんの

「ビールを冷やすだけで 1000 円もの氷を買う。贅沢なことだなあ。この氷はそのまま食べられる氷なんだよ(誰かに話しかけるように)。」

 

「しかし、ビールを冷やすことも大切なことなんだぁ(一人で納得しながら)。」

との言葉に、話し方は奇妙ななトマベチ節だが、確かに贅沢というか無駄なことは確かだなあと思った。

 

それにしても、トマベチさんの誰かに語りかけるような口調は、いったい誰に話しかけているんだろうか。

もしかしたら、トマベチさんだけにしか見えない誰かがいるのではないだろうか。

今にしてみるとトマベチさんだけ5人ぐらいで合宿していたのかもしれない。


その後は一路テン場を探しに海岸を目指す。

車のサンルーフを開け、オープンカー状態にして突っ走る。

私の愛車はマツダオートザム)のAZー3という隠れた名車だ(と私は思っている)。

 

 

佐渡の西海岸、佐和田に到着する。

私は佐和田の窪田浜キャンプ場を強く勧めたが、アライ隊長のイメージに合わないらしくあっさりと却下された。

さらに北上を続ける。

 佐渡の西海岸は、とても走りやすいきれいな道が続いている。

 

相川を過ぎると途端に食材を購入できそうな店がなくなった。

やばいのかなぁ、それともまた開けた街に出るのかなぁと思いながらも、さらに北上。

 

入 崎(にゅうざき)でやっと隊長アライくんのお気に召すテン場が見つかった。

一応海水浴場のようで、地元と思われる人達がのんびりと海水浴を楽しんでいる、静かで平穏な場所だった。

浜辺のそばに駐車場、トイレ、シャワー(水だけど)、水飲み場も完備されている。

 

我々のような、文明に寄り添わないと何もできないが、野性味にも憧れを持っている中途半端なキャンパーにとって、まさにうってつけの場所だった。

 

さっそく荷物を下ろしたり、大きな石を拾って来てはタープをたてたりした後、夕飯の食材を買うために1km 先のAコープに行った。

が、なんと今日は臨時休業日だと言う。

 

近くのおばさん曰く、
「近所で運動会があったからねえ」

そんな理由って…。

24時間、年中無休営業に慣れすぎていたので、休業の理由がなかなか理解できなかったのだ。

 

さてどうするか。一番近いスーパーはさっき通過した相川まで戻らなければないらしい。距離にして23km。

粟島を佐渡に変えたのに、また食材が調達困難な状況になってしまった。

過去の経験は全くいかされず、いつでもどこでも、何不自由ない流通サービスを享受できるという甘えた考えからなかなか脱却できないのだ。

 

トマベチさんに

「日没までには必ず戻ります。美味しいご飯を炊いておいてください」

走れメロス的な言葉を残し、アライ隊長と私は車をぶっ飛ばして相川まで戻ることにした。

 

地元の人は律儀で 40km/h制限だと 40km/hで走るようなのだ。

こっちは ちょっと急いで80km/h~100km/hで戻った。

 

とてつもなく大きいと聞いていたスーパー「キング」は、気をつけないと通り過ぎてしまうほどコンパクトなスーパーだったが、地元佐渡産の魚介類がたくさん、しかも安く売っていた。流通業万歳!

サザエやムール貝イカ、エビなどをしこたま買い込んだ。

 

アライ隊長は海岸で夕日の中、ビールを飲みながら宴会に興じることだけが合宿の真の目的らしく、帰りは私と運転を代わり、さらにぶっ飛ばしたのだった。

 

なんとか夕暮れに間に合い宴会の準備が整った。

今日の夕飯は佐渡産魚介類の炭火バーベキューと、タコ飯の素で作ったタコ飯だ。

 

さっそくビールで乾杯する。

佐渡の澄んだ空気と照りつける太陽で干からびていた我々に、このビールはかなり効いた。

トマベチさんが

「ヒーッ、うまい」

と言っていたが、その言葉は真実をそのまま音声化したものであった。

 

その後、焼けたムール貝がすぐになくなる事件や、翌日の朝食用シャウエッセンがいつのまにか焼かれて食べられている事件がおきたが、みんなおなか一杯になり、
ビールも 1 ケースほとんど飲んでしまった。

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それにしても、氷水にビールがたくさん冷えている状況というのは本当に心強い感じがするものだ。

 

水平線に太陽が沈んでゆく様子がくっきりと見える。

雲ひとつなく見ることができたのは、生まれて初めてだったかもしれない。

佐渡はいいなあと確信した瞬間であった。

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その後は、隊長の二つ目の目的である「焚き火」を始めた。

その辺に落ちている木々を拾ってどんどん燃やしたのだった。

 

47度のジンは飲用ではなく、口から焚き火に吹きかけて「ヴォッ!」と燃やすほうが多かったかもしれない。

これも聖書「わしらは怪しい探検隊」では、ガソリンを焚火に吹きかけるのだが、さすがにガソリンは無理なのでジンで代用したのだった。

 

途中強風でタープが壊れ、テントが転がり、火の粉が飛び散るという状態になったが、前日の寝不足もたたりかなり酔いが回ってしまい詳細はよく覚えていない。

 

ただ、星が恐ろしく良く見え、天の川まで見えていたのは覚えている。

上をずっと見ていたので、余計酔いが回ってしまったのかもしれない。

 

何時だったか、テントにもぐりこみ寝てしまった。

トマベチさんの話では、強風にあおられ火の粉が飛んでくると隣のテントの人から注意をうけ、夜中に焚き火を消したらしい。

 

ちなみに、私とアライはテントに寝たが、トマベチさんは海を感じたいと外のビーチチェアに寝たため、夜中蚊に襲われよく眠れなかったそうだ。

 

前日も喜多方の公園で同じような事をしているのだから、少しは気をつければいいのに。

 

翌日は連泊決定


翌日、6:00 頃、すでに燦々と輝く光で暑くて目が覚めた。

頭はガンガンし、のどはとてつもなく渇いており、起きていきなり爽健美茶を立て続けに3本飲んだ。

自動販売機が近くにあるのは本当に素晴らしい。

 

その後、歯を磨いたり、水シャワーを浴びたりしたあと、皆が起きてくるまで椅子に座ってぼんやり海を見ていた。

 

テントのそばで座ると、海に打ち上げられた死体のようなトマベチさんの寝顔が目に入るので、視界に入らない高台に移った。

 

頭が痛くて胃は気持ち悪かったが、風はここちよかった。

 

そのうち隊長もテントから這い出てきた。

トマベチさんはと言うと、真夏の直射日光を浴びながらも頑固に寝ていた。

雲ひとつない澄んだ空気の日差しは、朝から刺すように照りつけているのにだ。

よく眠れると感心する。

 

朝食は佐渡産の食パンとボイルソーセージ、コーヒー。

タープの日陰で椅子に座りながら食事をする。

 

椅子に座るのと地べたに座るのとでは、何故か文化度が随分違うような気がする。

 

直射日光に照らされ水滴が出ていた食パンも、マヨネーズをつけてソーセージをはさむととても美味しかった。

はっきり言って昨晩のバーベキューより美味かった(私には)。

 

今日もここに連泊することとなった。

移動がないので一日のんびり過せる。

 

トマベチさんは起きてからずっと例の苫米地節である。

「泳ごう泳ごう」

とはしゃぎ、その場でフルチンになり着替えてた。

 

子どもがやると可愛いなぁと思う行為も、大人がやると目をそらしたくなるのはなんとも不思議だ。

 

やはり、大人は大人らしくするべきなのか、それとも、たまには子どもに帰るのもいいのか、今もって私にはわからない。

ただ一つ言えることは、

「子どもに帰るなら我々のいないところにしてくれ!」
と言うことだろう。


その後は、トマベチさんは海でぷかぷか浮いていたり、私とアライは日光浴をしていたりと、各自思いのままのんびりすごした。

 

昼飯の問題

 

昼飯は、私の持ってきたスパゲッティをゆでて、アライ隊長がマヨネーズと醤油と鰹節で、椎名誠風スパゲッティを作ることになった。

 

それは、本では読んだことはあったが、隊長以外誰も食べたことがないものであり、とても心配であった。

 

トマベチさんは1件だけポツンとある海辺の食堂のカレーがだいぶ食べたかったようで、かなりしつこく主張していたが、やはりアライ隊長にあっさり却下されていた。

 

今回、トマベチさんの主張が通ったことが一回でもあっただろうか(いやない)。

先輩なのに気の毒なことだ。


しかし、どうやらトマベチさんは食堂のカレーよりも食堂の女の子の方が気に入っていたのではないかと思われる。

「胸が少しふくらんできており、大人への準備をしているんだなぁ。」

などつぶやいていた。

ちょっと、本格的にヤバイおじさんいなっているようだった。

 

心配だった昼食のスパゲッティも意外と美味しく食べられて一安心。

 

午後も各自好きなようにすごす。

アライとトマベチさんは沖の岩場まで泳いでいってしまった。

 

晩飯の問題


この日の夜は、全員一致でカレーに決まる。

トマベチさん特性のカレーだ。

Aコープに食材を買いに行った。

今日は運動会でないので営業している。

 

トマベチさんは何カレーがいいか、皆の意見を優しく聞いてくれた。

「アライは何カレーがいいかい。チキンがゴロゴロ入ったお母さんのカレーかい。それとも角切りポークのお父さんのカレーかい。贅沢にビーフを使うかい。」

など。

 

あれほどいろいろ材料を考えて行ったのだが、近くのAコープには、薄切りの豚バラ肉しかなく選択の余地は全くなかった。

まあ、営業しているだけでもありがたいのだった。

 

トマベチさんのカレーは、とびっきり辛かったが予想に反してめちゃくちゃ美味い。

途中で鍋をシュラフに包んで寝かせていたりと、大丈夫かなあと思っていたがこれが美味い美味い。

夕飯の前にビールを 2 本飲んで酔っ払っていたせいもあるかもしれないが、とにかくうまかった。

 

その後は昨晩と同じ。

水平線に沈む夕日を見ながらビールを飲み、焚き火を起こし、わあわあやっていた。

 

翌日は月曜日のためかビーチには我々以外誰もおらず、やりたい放題だった。

 

しかし、日焼け止めも何も塗らず真っ赤に日焼けしたトマベチさんは、日焼け跡が痛い痛いと言って 21:00 に早々に寝てしまった。

 

後は、アライ隊長と 2 人焚き火に興じた。

追加の薪を 2度ほど調達した。

 

2度目ともなると海岸に薪になりそうなものはほとんどなくなってしまった。

 

焚き火は 0:00 過ぎまで続いた。

ホントただ燃やすだけなのだが飽きない。

私は 0:00 で寝てしまったが、焚き火命の隊長は 1:00 頃まで焚き火を燃やし続けていたらしい。

 

そんなに大切に燃やしていた焚き火を、夜中の3:00ごろトマベチさんは立ちションで消したらしい。

 

寝る時にテント越しに満天の星が見えた(私のテントは屋根がメッシュなので空が見える)。

隣に真っ赤に日焼けした醜いトマベチさんが寝ていたが(今夜はテントに寝たいと言っていたので)、佐渡は本当に本当にいい所だと思った。

 

早くも最終日


翌朝5:30 に起床。

佐渡の爽やかな朝を感じるためにさっそくテントを出た。

 

昨日と同じように爽健美茶を飲んだり、歯を磨いたりした後、椅子に座って海を見ていた。

海というのは、単調なのにもかかわらず、見ていてもいつまでも飽きないのが不思議だ。

 

お湯を沸かし、一人モーニングコーヒーを飲んでいると。地元のおばあさんがよろよろ歩いて来た。

「おはよう。」

「あっ、おはようございます。」

「晴れてよかねえ。」(こんな感じの言い方だったか)

「そうですねえ。」

 

それだけ言うとUターンして行ってしまった。

しかし、佐渡のおばあさんは全員が似ている。

みんなあんな感じだ。ヨーダというか何というか。

 

歳を知らないので老けているのか若いのかわからな
いのだが、あれで 100 歳だったら元気だと思う。

70 歳ぐらいだったら、都会のおばあちゃんのほう
が若々しい。

 

佐渡と都会と、人間にとってどっちがいいのか、外見だけではちっともわからない。
今日の朝飯は、昨日の残りのカレーとご飯、玉ねぎとソーセージのコンソメスープ。

 

昨日は椅子に座って優雅に食べる心の余裕があったが、今朝は地べたに座って食べている。
やはり日を重ねると、昔のがさつなサイクリングクラブに戻ってしまうようだ。

 

アライとトマベチさんは朝からビールを飲んでいる。

昨日も朝から飲んでいたが、よく朝からビールなど飲めるもんだ。

 


ゆっくりと朝食を食べ、不参加だったワカバヤシに、合宿の有意義さと来年は参加するようにという内容のハガキを書いた後、帰りの準備をする。

 

12:00 には両津港に行かねばならないので、あまりノンビリもしていられない。

もう最終日。時がたつのはなんとも早いものだ。
3 人で記念写真を撮り、両津港めざし出発。

 

近道して、大佐渡スカイラインを通って行く。

ものすごい急坂で、大人 3 人と荷物を満載した我が愛車AZ-3 1500ccは、ヒーヒー言いながらなんとか登っているといった感じだった。

 

峠では真野湾両津湾が一望できた。

やはり佐渡は結構でかい。

 

この時、トマベチさんの姿が見えなくなった。

トマベチさんは、何とソフトクリームを食べながら、関係者以外は入れないバスの運転手や添乗員さんの休憩所でマンガを読んでいたらしい。

 

3 日間の観察の結果、トマベチさんは、我々の理解できない未知の生物だとの結論に達した。

 

12:00 に両津港着。

異星人トマベチさんとはここで別れた。

フェリーの時間が迫っていたため、怒涛のように別れてしまった。

 

我々も乗りたかったのだが満車だったのだ。次もその次も満車とのこと。

しかたなくアライ隊長と 2人、16:50 分発のフェリーめざして小木港向かう。

 

途中、第 2 回夏合宿で悲惨な夕飯になった現場である「津神島公園」で昼食を食べる。

その目の前を、さっき乗れなかったフェリーが通過していった。

 

その後、小木港までのドライブは眠気と戦うドライブであった。

佐渡の東南側は道も細く、これといった海水浴場もなく魅力の薄いところであった。

 

やっと小木港に到着。

小木港ではフェリーの出発時間まで余裕があったのでハガキを買い、クラブの同期や後輩にハガキを書いた。

来年以降の勧誘の意味も込めている。

 

ソバを食べたりハガキを出したり、お土産売場で試食をしまくったりしている間に、あっという間にフェリーの時間になった。

 

フェリーは新潟港ではなく、今度は直江津港につく。

時間は 2 時間 30 分。

離れゆく佐渡に別れを告げることなくすぐに寝てしまった。


直江津からは上信越道をぶっ飛ばしてひたすら岐路につく。

片側1車線しかない、なんとも走りにくい高速道路であった。

 

車内で今回の反省や今後の課題について話し合った。

反省点は何と言っても水中メガネだ。

水中メガネというより、海から海の幸を採ることだ。

これは第 1 回合宿からの課題であり、今年も解決されず、来年もたぶん同じ反省をしているであろう。

 

「キングで買ったサザエは6個で 300 円だっただろ、水中メガネセットは 3,000 円もする。

3,000円の元を取るには 10 年もかかってしまうぞ。」

「1回で 12 個づつ捕れば5年で元が取れる。」
「海からわざわざ捕って来てもらえるんだから、キングの 300 円の方が絶対得だ。」

 

海から海の幸を獲ることの真の課題は

「自然とのふれあい」

だったはずなのに、我々の視点は、いつの間にか「コスト」の問題になっていた。

 

その他は、ビールを冷やす容器がただの発泡スチロールだとカッコ悪いという点だ。

これはもう、贅沢な悩みの領域であろう。

 

来年は人数を増やそうとか、増やすと面倒だとか、結局何も新しい展望や結論なしに、行きの高速と同様に無駄に岐路の時間をついやしたのだった。


0:00 頃アライ隊長宅に到着。

自宅についたのは 24:00 頃だったか。

意外と疲労感はなく、これにて第5回夏合宿は終了となりました。

 

来年はどこなんでしょうか。

私は佐渡がいいです。

粟島や飛島は車でわたれないし、ビーチチェアを持っていけないし、スーパーもないし・・・。

それから、隊長、冬合宿は決して企画しないで下さい。寒いから。